浪人II―32

おっはよー。帝王です。


昨晩はオボセンのアドバイスにしたがって、部屋の電気を消して足温器に小一時間つかり、十時にはねたさ。したらオボセンの言った通りになった。睡眠が深いぶん(なのか夜寒かったせいかしらんが)夜中に二回覚醒して、「まだ夜か〜」なんて思いつつ寝て三度目、起きたら外が明るかったので時計をみたら五時すぎ。ちょっち早めだけど起きて活動しまーす。にしてもやはし深夜電灯を消して無理矢理眠り、朝は目覚ましで強制的に起きるっていうのは生物学的には奇妙な話だよね。無理な社会生活を営んでいる以上しかたがないんだけど。兄貴なんて休職する前は毎日一時すぎまで仕事だったですからね…。狂ってるよ。


じゃ掃除機かけて着替えて朝飯つくりまーす。

ふっふーん

やあす。予備校いってきました♪


朝5時に起きたので数学を一問といてからゆく。6時に下の階に住む兄貴が土曜日の本番のためのスーツを貸しに来てくれる。元気そうだ兄貴。よしよし。兄弟揃ってうつ病克服か?


だが!一限に5分遅刻後ろの席に座ったので退屈で寝る。数学タイクツよねー。好きだけど。その後二限は一番前の席に移動して集中したさ。



だが!昼飯くってから代ゼミプラザ(自習室の名がついた雑談スペース)で4時間爆睡する。朝気付けにかなり強いウォッカをしてきたんだけど、携帯でググるとやっぱ酒と薬はかなり相性が悪いって。眠気なんかも強く出るって。ハルシオンなんかは記憶がなくなる。さっきA子から電話がかかってきたんで「なに?」と尋ねると「昨日の夜そっちがかけてきたんじゃん」という。まったく覚えてない。用があったとも思えない。


ところで、代々木ライブラリー(割安で参考書とかを販売している店)でアランの『幸福論』を買いました。ほんとは(仏教評論家のひろさちやさんが紹介していた)ロシアのなんとかいう寓話作家の本を探していたんだけど、なかった。が、かわりにアランの名が目についた。


帝王は哲学は難解で苦手だけど、アランは単純で日本刀で斬られたような明快さがあって好きです。(いまのところ斬られた経験はないけど)この『幸福論』、いろんな哲学者がいろんな題名で幸福について書いていて、帝王は書店でみかけるたびにキモいと思っていたんだけど、アランの名にひかれて買いました。これ、アランがテンセイジンゴのように新聞に連載を書いていたものを抜粋した本。


引用。「12 ほほ笑みたまえ」より。「われわれの病気はたいてい、礼儀正しさを忘れてしまった(自分に無理強いをする)ところから生まれているのだ、とぼくは信じている。」「それ(=情念からのがれることには思惟が必要だ、ということ)はちょうど、かなりの賢者になると、名誉欲に陥らないために名誉を求めないようなものだ。ところが、不機嫌になると、われわれは束縛され、窒息させられ、息の根があとめられてしまう。それはわれわりが悲しくなるような体調に合わせて自らを処し、その悲しみを維持するように自らを処するというただそれだけのことだからだ。」「不機嫌という奴は、自分に自分の不機嫌を伝えるのだ。」おもしろくない?


特に2つ目とか。アランのいいたいことは、「しかめっつらしないで、笑いたいときは笑い、あくびしたいときはあくびし、自分を制限するな。悲しみに自分を縛り付けるな。つねにほほ笑みたまえ。さすれば健康になる」ということかな。


話がそれるが2つめに関して、ラ・ロシュフコーの書いたことに「それまで得た名誉はその後の名誉の担保となる」というような言葉があったのを思い出しました。欲は利率40%の多重債務ってことだよね。だから帝王は貧乏生活を送っているんです。さすがにあと二千円で2週間は無理かな。募金して。食糧布施してくらさい。


じゃシュッツの練習にいってきます。今日はソロの練習だー☆

ああ

昨日高田馬場でおもしろい看板を見つけたのに写真をとれていなかった。話が戻るけど岩波でアランの翻訳をしている神谷幹夫さんはとてもセンスのいい訳をすると思います。読みやすよね〜

考え込む

練習いってきました。三時間はきつい。MD聴いて復習しないと。


歌は時に退屈なもので、苦痛を強いることもしばしばです。先生はいつか「私は歌について泣かなかった日はない」とおっしゃっていました。自分がいかに未熟であるか認識したときから上達しあるレベルに達するまで、歌はただただ苦しい。それでも音楽を伝えるためには冷静でなければならない。帝王だって何度合唱をやめようと思ったことか。今日だって「こんな辛い作業やめてやる!」と何度も思いました。先生が泣くのと一緒です。しかし先生のもとにいると「まだやれる」と勇気付けられます。


練習の帰り、先生と医学のはなしをしました。オボセンの「病を診ずして人を診る」医療、帝王の夢見る「総合科」、仏教における受容の立場とその限界性(人は仏ではない)、いわゆる最先端医療が招く人間のアイデンティティーの喪失について(人が人であるという哲学的認識の変容、生を受けた必然性の破壊、自他の境界の曖昧化)、など。先生は音楽的にも哲学的にも倫理的にも非常に聡明な方でいらっしゃるので、帝王の拙い話も伝わった。


残念ながら話の途中で駅についてしまったため話が発展しませんでしたが、先生より「腸内細菌の状態により宿主の人間を診る」という研究がある、という話を聞きました。帝王はこれを聞いてピンときて、そういえば免疫学の研究者で、非自己を通して自己は確立されていく(胸腺での免疫確立)、という主張をしているひとがいたな、と連想しました(本はまだよんでない)。この自己と非自己、という考え方が面白い。先生の指導の中に(これだけは書かせてください!)「発声とともに自己を捨てるためには、その直前まで強烈な自己が必要だ」という言葉があったのですが、この歌(合唱)における考えと、上の自己非自己の話には共通点があると思う。そしてさらに、それがいま破滅の道を進んでいる医学に光を与える考えの一つであるようにも思う。


あんまり考え込んでいたら頭が痛くなってきたので、先生とわかれてから電車でアランの本をもう一章読みました。「11 医学」というところ。長すぎて引用できないが、大意は「病気だと思うから病気になる。自己への固執が病気を生み出す」ということ。「病は気から」なんていうと古臭い精神論みたいになりますが、これは非常に重要な示唆を我々に与えていると思う。つまり、病気を自分と社会との関わりでなく、純粋単一に自己の問だいとして取り扱う。そして、その症状を自分のなかで矮小化して考える。アランの言葉を借りると、「第一の、もっとも確実な治療法は、したがって、胃や肝臓の痛みを感じても、足に魚の目ができているのと同じようにしか考えないことだ」。アランは同じ文章のなかで、そのような暗示をかけるのが医師の役目である、と示唆しています。これこそがユニバーサルな医療であると思う。医学と哲学と宗教は三位一体ではあるべきでないか。そしてその三つに境界を感じさせないのが、ユニバーサルな名医ではないか。そんなことをつらつら考えました。


帰りに携帯代とガス代を払ったら所持金が1000円を切ったので現実に戻された。仕送は17日以降。急いで銀行から5000円おろしたが、こちらも残高2000円をきった。連休明けに医療費4300円を別に振り込んでもらうが、これは銀行いき。今月はじめの残高は10000円。できれば今日おろした5000円も銀行に戻したい。生活できねえ。八方塞がり。マジで死ぬかも。嗚呼。生活とは無感情なものよのう。

あしゆー

あしゆターイム。水曜日は練習が22時まであるのでどうしても寝るのが遅くなる。「肩いて〜ヒフかい〜」なんてじたばたしてるうちに二時や。


ところで昨日から帝王は夜間なるべく部屋の照度を下げるよう努力しているのだが、それにも限界がある。たとえば部屋にいるときは風呂場の電気をつけて、風呂場にいるときは玄関の電気をつけて、というふうに直接光をあびないように心掛けている。蛍光灯などもってのほか。それでも浴びる光はあびるので、ろうそく買おうかな〜なんて帝王は考えてます。夜まぶしいのいややもん。キッチンキッチンにろうそく置いてへんかなあ…不眠症をなおさなあかんのやで帝王は。とりあえず足温器はよく眠れるのでグーです。おすすめ。睡眠薬のんでねます。ぐう。あ、洒落です。ごめんなさい。