浪人ニッキ133

ここのところちょっといろいろなことがあって、更新を止めていました。
(いやよくみたら一日だけだ)


最近ちょっといやなことがあり、友人の女の子で一緒に自殺してくれるという子がいたので、
その気になってハードディスクの整理とか青木ヶ原樹海への行き方を調べたりして
いたのですが、結局やめました。音楽だけはどうしても諦めきれなかった。
自分から誘っておいてその女の子には非常に申し訳ないことをしたと思っています。
でももしどうしても死ななければならない状況になれば、お供します。
ぼくが生きる限りはそうならないようお手伝いしたいですが。


以前S土(ともだち)がなんとかいう哲学者の言葉をひいて、「人間は純粋に死を
希求することはできない。多くの場合、死への希求は逃避願望の変質したものである」
みたいなことを教えてくれたのですが、今回死というものを少しまじめに考えて、
やっとその意味がわかった気がします。
いままでぼくは「死にたい死にたい」と繰り返し書いてきたものの、
やはりそれは純粋に死に憧れているというよりは、現状から逃るための
手段として死を望んでいたわけでした。
このたび死ぬということをはじめて本気で考えて、怖くなりました。
死への恐怖というものは本能的にやはりあるもので、死ぬ以外の方法に
現実から逃避する、または現状を打破するような方法があるならば、
人はそちらを選ぶべきなのです。
決してぼくは自殺しちゃいかんとかいう下らない考えはもちません。
人間死ななきゃならんときはあるのだし、第一どうせ80年もしたらみんな死ぬのだし、
死ぬのは勝手であって自由で、それを止めるのは単なるエゴにすぎないと思います。
だけどほかの方法があるのならば死なないほうがいいなと思いました。


「人間死ぬ気でいればなんだってできるさ」というのはアホチンが口にする
もっとも寒くて憎い言葉の一つだと思っていたのですが、案外そうかもしれない、
とも思いました。もし自分がこれからも自殺せず行き続けるとしたならば、
死について大真面目に考えた昨日一昨日のことを思いなおせば、
大抵のことはなんとかなるのではないかと思いました。
死と同化したというか。もちろん自殺するかしないかというのはまた別の問題ですが。