浪人ニッキ78

今日はなんだか、とても「自殺したいなあ」という気分でした。
ベッドのシーツで輪っかを作って、首をくくろうかと思ったり。
はたまた、机にしまってあるロープを使ってみようかと思ったり。
そんなこんなで自殺についてネットで調べたり。
いろいろ考えていたら、「To be or not to be, ...」という言葉が
浮んできて、ハムレットの言葉がこんな具体性というか
真実性をもって迫ってくるとは、などと思ったり。
死ぬのは簡単なんです。でも、実行はしない。
ひとつ、死体が汚いというのが気にかかる。
せめて死ぬなら自宅でなく、山中で死にたいですね。
もう自殺のことを書くのはこれで最後にします。
だれが読んでも不愉快になるだけでしょうから。
もうやめます。人間死んだらゴミになる、とは思いませんが、
死体って汚らしいですよね。ネットをはじめたころ、沢山
死体の画像をみて(興味本位)、鳥肌が立ちました。
「人間って死んだらこんな風になるんだ…」って。
いつもそう思うと、なんだか恐ろしくて死ぬ気になれません。
少なくとも人には見えませんよ。物、です。
ゴミではないかもしれませんが、物、です。
死体は物、です。objectです。humanではありません。
もういらんことを書くのはやめますね。今日を最後にします。


ところで昨晩、パソコンで保健学科のことを調べていたら親にみつかって、
いかにぼくの根性がないか、目前で(医者から検査技師へと)目標を変えることが
道理に適っていないか、ということをこんこんと語られて、嫌気が差して、
自殺したくなりました。(あ、また書いてしまった。)
ぼくは親とはまともな会話はしません。
だから、非常に関係がややこしくなっています。


というのも、ぼくは子供のころから、結構なんでも話したがる性格で、
いらんことを喋って、それがきっかけで親におこられたりしました。
(具体的な例、といっても思い浮かばないのですけれども)
それである時から、「余計なことを話すと損をする」という考えを持つようになり、
次第に「いらんことは話さない」「もう親とは会話しない」という考えに
変質していきました。だから、表面上のコミュニケーションはとるものの、
それはすべてポーズであり、道化であり、太宰治のいう「サーヴィス」です。
だから、自分と親との関係は非常にややこしいものとなってしまいました。


ですからいつも「親にくらい自分の考えを話せ」だとか「黙りこくるな」だとか、
「お前の考えていることはわからない」だとか様々なことを言われ、
それでも一言も話さず、それで余計に溝が深まっていく、という状態で、
非常に面倒くさい。溝が深いだけに、余計に話すのは面倒だから、
それがまた会話をしない理由となる。非常に面倒くさい。
そういう背景があり、昨日も親父が切れて、お袋も切れて、ぼくは黙り込む。
面倒だ。死にたい。いや、失礼。


また、自分のことを書いてしまいました。今日の本題はこんなことではないのです。
それで、「死にたいなあ」などため息をつきつつ、「では、他のひとは、
一体どんなことを考えて生きているのだろう?」と疑問に思い、
友人数人に、「いま生活している上での『楽しみ』はなにか?」という
要旨のメールを送ってみました。男に送ってもうざがられるかなあ、と思い、
女の子を中心に送ったのですが、男にも数人送ってみました。
メーテルリンクではないですが(いや、読んだことはないんですが)、
「答えは身近なところにある」というような気がして、また、
人の話を聞いてみるのも、これは大事なことだ、という思いもして、
いろんな人に聞いてみました。以下が、得られた答えです。
せっかくですので、返信をもらった順に、一人ずつの話を
転載させてもらいます。昨日返信をもらった分はメールを返したんですが、
今日もらったぶんは、ちょっと気分が悪くまだ返せていません。
あとで返しますので。ごめんねー。追加分で返信をもらったら、
その都度つけたします。それでは、どうぞ。
ああ、いちおうイニシャルで書いていますが、ブログに載せるなよ!
というひとがいましたら、メール下さい。削除しますので。