平等と不平等に関する話

学校の先生は「天は人の上に人をつくらず...」と教えます。
ある程度世間のせちがらさを知った人は、「世の中は決して平等ではない」と
ため息混じりにつぶやきます。ぼくも、世の中は平等でないと思います。
(ぼくのような救いようのない人間が存在していることからして、世の中は不平等です。)


仏が一切の差別をしないで、すべてを平等に見、平等に扱うならば、
この世の不平等は一体どこから来ているのでしょうか。
思うに、僕たちが不平等だと判断するのは、ぼくたちの価値観に照らして
みているからであって、実は世の中はまったくの平等ではないのか。
つまり、頭の悪い人がいれば頭のいい人もいて、ぼくのような
どう転んでも駄目な人がいれば何につけても要領がいい人もいる。
これを不平等だとみるのは、頭のよさや能力の度合いを基準化して
人を見るからでしょう。同じように病気の人と健康な人との間に不平等性をみるのは、
僕たちが健康という価値観を基準化してものをみているからです。
しかし何事も分別しない、無分別智の境地に立てば、頭が悪かろうと顔が醜かろうと、
それは例えば、僕たち(少なくとも日本人)が足の大きさで人を差別することが
ないように、足の大小と同じレベルの個性・固有性としてとらえることができるはずです。
そしてこのような境地が空であり、涅槃であり、仏であるのだと思います。


五木寛之さんは著書『他力』の中で、事がうまく運ぶときに、「他力の風が吹く」
という表現を使っていますが、実は、他力の風はいつも吹いているのではないか、
とも思います。ぼくたちが他力の風が吹くと言うのは、飽くまで僕たちの生活の価値基準に
照らして判断しているのであって、本来仏の働き(他力)は平等であるはずです。
そう考えると、他力の風は常に吹いているのだが、ぼくたちはそれに気付かないだけです。
基準化された価値観に基づいて生活しているから、本来一定である仏の働きが
プラスにもマイナスにも見えるのだと思います。
このように世の中の損得とは離れたところにあるはたらきのことをを、
此の岸(此岸)ではないという意味で、仏の彼岸性と呼ぶのだと思います。


要するに、生活の上では僕たちはこの上なく不平等ですが、
見方次第によっては、平等であるとも考えうる。
その見方として前述の空があるわけですが、これはこう考えるといいと思います。
(さっき風呂の中で思いつきました。)すなわち、この地球上に自分一人しかいないとする。
そのとき、人は、ぼくがだめ人間だと言えるだろうか?否、です。
他に人がいない以上、比較はできないからです。
価値観というのは、複数の人間がいてはじめて成り立つものでしょう。
ですから、この場合、比較ができない以上、自分という存在をありのままで
理解するしかない。このような境地を空と呼ぶのだと思います。
だめ人間、というのはぼくの中に内包された価値なのではなく、
あくまで複数の人間と生活している内に、外部的に形成された価値の一つなんでしょう。
つまり相対的にだめ、なのであって、絶対的にだめ、なのではないわけです。


なぜぼくは救いようがないほど駄目であるのか、を考えていたら、
上のような思考を巡りました。空や彼岸の考え方をどのようにして
生活の中で活かすか、というのは難しい問題ではあると思います。
しかし少なくとも、僕たちが普段、判断の拠り所としている価値観というのは、
決して絶対的なものではなく便宜的相対的なものである、というのは、
ひとつ理解しておいて損はない事実だと思います。
なので全国のだめ人間さんはあまり落ち込まないように。


それではまた。