堕ちるということに関する話

また一日を潰してしまいました。
さすがに受験も近いこの時期になると、自分の馬鹿さ加減にも嫌気が差します。


堕ちるということを思います。
僕たちは堕落するということや、「できない」「しない」ということについては、
悪であると決めつけがちだと思います。また堕落した自分や事に失敗した自分のために、
激しい自己嫌悪に陥るということも、多々あることだろうと思います。


このように駄目な自分、できない自分を認識するにあたって、
「なにをやっているんだ」「このままでは駄目だ」と、
自分自身を叱咤し刺激する、いわば否定の姿勢に立って、
心を奮起させることで欠点を克服していく、という方法が一つあります。
(仏教ではこのような姿勢を対治とよぶそうです)
欠点や堕落の度合いが小さいときはこれで十分悪い点を改善することが十分できるのですが、
その度合いが大きいときは、自分を責めるのがあまりに辛くなるときがあります。
そういう時は、一度駄目な自分というのを認めてみる。
できない自分というのを肯定した上で、しかと自分と向き合う。
そのようなことも大事のことのように思われます。
(このような姿勢を同治とよぶそうです)


明るい悲観主義や悲しむことに関してはこれまでも書いてきました。
これらに共通することは、現状を肯定し、向き合うということです。
楽観は現状の認識の否定であり、その意味で悔恨という否定は一種の楽観である、
とも書きました。僕たちにはどうしても楽観しきれないほどの失敗を起こすことがある、
だからそういうときには現状の自分を肯定することが大切であるように思います。
その意味で、堕落するというのは自分と向き合うチャンスとは考えられないでしょうか。
どんなに楽観しても所詮僕らは全能たりえません。
だから僕たちは「できる」と思った瞬間、ある意味ではなにか
本質的なものから目を背けているようにも思えます。
そういう僕たちが裸の自分と向き合う機会を与えてくれるのが、堕落することであると思います。
だから、堕落したと感じたときや大きな失敗を犯してしまったときは、
自分を責め、現状から目を背けるのではなく、飽くまでもそのままの自分を肯定し、
自分がどういう存在かを見極めるチャンスである、と受け取ることが大事のように思います。


相変わらず舌足らずですが、それではまた。