悲しいということに関する話

悲しい悲しい悲しいんだね
悲しい悲しい悲しいよね
こんなにどんなに泣いても
消えることない悲しみさ

(矢野絢子「一人の歌」より)


悲しい、というのは綺麗な感情だと思います。
漫画『軍鶏』で、薬漬けで廃人になり記憶を失った主人公の妹が、主人公の手を見て、
「あんたの手キレイ…キレイは悲しい…」と言う場面があるのですが、
ぼくはそれは逆で、むしろ「悲しいは綺麗」だと思います。
悲しみは、なんの利害関係もない感情だから、綺麗だと思うのです。


五木寛之さんは『生きるヒント』の中で「みんなが、<暗い>と言われることを
恐れている。そして明るく軽快で楽しげであることを求めている。
これは一つの病気ではないかと、ぼくには思えるのです。
なぜ、それほどまでに現代人は暗さを恐れ、悲しみを嫌い、涙を軽蔑し、
みんなが明るく愉快であることを求めなければならないのでしょうか。」
と書いています。これは本当にそうで、明るいこと、前向きなことが肯定され、
暗いこと、後ろ向きなことは否定される。これはそれ自体非常に悲しいことだと思います。

悲観することや悲嘆にくれることは何も生み出すことがない、だからダメだ、
というのでしょうが、ぼくは悲しむことが無意味だとは思いません。
絶対的な悲観の向こうにあるのは、限りない楽観だと思います。
悲観することは、現状の否定です。
しかし惨めで悲しい自分を認識しきったとき、その次にあるのは
受容であり寛容であると思います。
というより、そうあらねばならないと思うのです。
否定の先には憎しみしかない。否定の先には停滞しかない。
だからこそ悲観しきった先には肯定がこなければいけない。そう思います。
その受容、寛容に至る過程として、悲観することが必要であると思うのです。


単なる楽観はまた、逆説的ですが、否定から出発していると思います。
それは現状の認識の否定であると思います。
だから、受け入れられないもの、例えば子供の死や大きな挫折などに出会ったとき、
そういった人は絶望してしまうのだと思います。


それだから、ぼくたちは受容の精神を持つために、
大いに悲しむことが必要であると思うのです。
生きることは悲しい。しかし悲しいからこそ喜びがある。
そう思いたいです。


それではまた。