98年6月27日の日記

今日は、補習校で全国共通テストの結果が返ってきました。国語は83点、算数は74点でした。そんなに低かったのか、と思ったけど、平均の点数よりかは上でした。また、今日は、父が風呂のカビ取りをしてくれました。カビだらけだった部屋が一気にきれいになったのでうれしかったです。


補習校とは前にも書いたように、現地校に通う日本人が、日本語の勉強をするために
通う学校です。ここは非常に特異な環境で、。"Damn, what's wrong with you?"
(てめぇ何しやがる)など日本人同士が英語で話すのも日常風景でした。
ぼくは補習校に通う中でも、割と滞米期間が短い方だったので、
(渡米したその年に入学し、卒業まで二年間通いました)
はじめは驚きましたね。また日本人といっても大抵は長くアメリカに住んでいるので、
性格もアメリカ的。つまり「恥」という感覚がなく、オープンで、フレンドリー、
裏表がない、そういった面がありました。


少し話は逸れますが、この「恥の感覚がない」というのはぼくがアメリカに
移り住んで最も強く実感として感じたことで、非常に新鮮に思いました。
本当に、他人のことを気にしたり、世間体や自分の評判を常に意識して
行動することが、アメリカ人には皆無なんですね。
だから学校生活なども非常に快適で、〜ができないからといって気に病む
ことなどありませんでした。例えば、あなたが運動がまったくできないとします。
これは性格にもよるでしょうが、日本で学生生活を送る場合、体育の授業などで
恥をかく場面が多々あるでしょう。また恥をかくからといって
体育の授業に気を重くすることもあるでしょう。
しかしアメリカで学校に通う場合、そのような心配は皆無です。
何が違うのかというと、根底にあるのは「他人のことを気にしない」という
ことなんですね。他人が自分のことを気にしていないから、自分も他人の目を
気にする必要がない、他人の言動を気に病む必要がない、そういうことなんですね。
言い換えると、「スタンダード」(基準)がない。そういうことになると思います。
ふつうだとか、一般的だとかいう概念がそもそもないのだと思います。
各人が各人のスタンダードを持っている、とも言えるでしょう。
いわゆる日本的なものは、水彩画に例えられると思います。
そこにはある基準の色があって、グラデーション的な、正規分布的な文化がある。
それにたいして、アメリカ(他の西洋諸国に関してはわかりません)的なものは、
油絵に例えられるのではないでしょうか。
そこには色と色とのぶつかり合いがあって、そのどれもが基準となりうる。
非常に感覚的な例えですが、これをぼくは生活の中で実感しました。
だから生徒一人ひとりがまったく違う個性をもっていて、
個々人が自立的な生命をもっている。そこにぼくは魅力を感じました。
なにも日本が悪いというわけではありません。ぼくは日本が好きです。
しかし、それでも時々アメリカ的なものに対する憧憬が募ることがあります。


補習校での2年間は、いままでのぼくの人生の中で最も充実していたように思います。
気取りや衒いのない、フェイストゥフェイスの交友関係。得がたいものではありますが、
これから生きてく中で再び見つけられるといいと思います。


今日は長くなりました。
それではまた。