浪人ニッキ15

今日は朝、岡山大学のことを母親に話してみましたが、あまり乗り気ではないようでした。
母親の言い分は、とにかく諦めるな、目標を下げるなということ。
また、駒沢先生は開業医であるし、すでに高齢でもあられるから、
果たして教えを乞うことができるかわからない、ということ。
言われてみればそうですね。
いろいろ言った結果、母親の結論はとりあえず目標は九大のままにしておいて、
願書を出すときに考えろ、という所に落ち着いたようでした。
心境としては、いままで九大に向けて勉強してきた以上、
受かるならぼくを九大に行かせたいようですね。(つまり「悔しい」ということです。
悔しいのはぼくではないです。)母親の気持ちもわからないでもないですが。


今回の問題はちょっと複雑で、そもそもぼくが九大受験を再考した直接のきっかけは、
この間の九大模試の結果がE判定だったことです。より本質的な理由は、
現在のぼくに、しゃかりきに勉強する能力がないことです。
というより、昨日書いたように、果たして自分を追い詰めてまで九大を目指すことが
本当にいいかどうか、確信が持てないからです。
数日前の記事にも書いたようにぼくは現在軽いうつで病院に通っているので、
あまり無理をすると体調が悪くなることも、一つあります。
そしてもう一つ、昨日未来の規定について少し触れましたが、
全く別の大学に行くことで、規定的でない、より自由度の高い生活が望めることもあります。
規定的でないというのは、今とはまったく別の土地で、
親元から離れ暮らすという意味を含みます。
要するに生活についての予測が(現時点で)できないということです。


そういったわけで、まず、もう少し簡単に入れる地方大学を目指してみようかな?
と思ったのです。そして駒沢先生が岡山大学卒だということを思い出して、
岡山に行けば駒沢先生に師事できるかもしれない、と思って岡山大学を一つの候補にしました。
しかし実際に調べてみると、昨日も書いたとおり、難しさは九大とさほど変わらなかったのです。
それで、ここに一つのジレンマが生じたわけです。
つまり、仮に岡山大学を目指すとして、岡山大学に通れるだけの学力があれば、
九大に合格することも十分可能であるわけですね。
逆にいえば、岡山大学に通るのも九大に通るのと同じくらい難しいというわけです。
とはいえ目的と意志があれば、少しは勉強に身が入る。
それで岡山大学に通れるような学力がついたとして、果たしてわざわざ
九大を捨てる必要はあるのだろうか?そうも考えました。
その辺のところに、親の気持ちもあるわけですね。
わざわざ九大諦めることないやん、と。
なかなか難しい問題ですね。
長くなったので明日に続きます。