浪人ニッキ14

今日は朝からジュンク堂に行きました。
昨日は少し疲れていたせいか、魅力を感じられる本がみつかりませんでしたが、
今日はいくつか面白そうな本を見つけました。ひろさちやさんの本です。
とりあえず1冊だけ買いました。『なぜ人間には宗教が必要なのか』という本です。
カタそうな題ですが、図や書式などよく工夫されていて、文章も読みやすいです。
ユダヤ教キリスト教イスラム教・仏教を比較してあるようです。
まだ少ししか読んでいません。
(ていうかツンドク状態でまだ読んでない本が部屋にたくさんあるので...)
それと遠藤周作の『聖書のなかの女性たち』を買いました。
新約聖書に登場する女性たちの話を紹介してある本のようです。


その後大濠公園で弁当を食べ少し読書して、腹ごなしにサイクリングロードを数週しました。
いい公園ですよ、大濠公園


それからスターバックスに行ったのですが、全く頭が働かず勉強せずに帰宅しました。
駄目ですね、さっぱり勉強できません。
よくみんな何年間も受験勉強できるもんだな、と思います。
もう飽きたんでしょうか、受験勉強はつまらないものです。(誰にとってもそうでしょうが)


ひろさちやさんが書かれていたことで、「今を大切に生きよ」というのがあります。
禅の教えだそうです。単なる刹那主義ではありません。
いくつか例を出されていました。
一つはロシアのなんとかいう寓話作家の話。
ある時、ねずみがライオンに仕えていました。
ライオンは「ちゃんと働いたら胡桃を山ほどやる」とねずみに約束していました。
ねずみは、他のねずみが胡桃を齧るのを横目に見ながら、
ライオンの言葉を信じて、来る日も来る日も働き続けました。
そしてとうとう、最後の日が来ました。
ライオンは、約束どおり、胡桃を山ほどねずみにあげました。
しかし、ねずみにはもう歯がありませんでした。
さちさんは、ねずみを自分に、ライオンを自分が働いている会社に置き換えたら
わかりやすいだろう、と書かれていました。
もう一つはある親子の会話。
「ひろちゃん、ちゃんと塾に行きなさい」
「どうして?」
「いい小学校に入るためよ」
「どうしていい小学校に入らなきゃだめなの?」
「いい中学校に入るためよ」
「どうしていい中学校に入らないといけないの?」
「いい高校に行っていい大学にいって、いい仕事について、幸せになるためよ」
「なんでそんなに先のことがわかるの?塾に行かなかったら、ぼくはいま幸せになれるよ」
未来のことはわからない、そのわからない未来の幸せを目指してもだめだと言うんですね。
大切なのは今だと。先のことがわからないからこそ、今を大切に考えないとだめだと。


このことから考えると、自分がカリカリ受験勉強をしてるのも(いまはほとんどしてませんが)
少し滑稽に思えました。なにも、目標に向かって努力するのが悪いというわけではありません。
なにを滑稽に思ったかというと、ぼくが特に理由もなく、
九州大学を目指して勉強していることです。
そもそもぼくが九大を受けようと思った理由は、「福岡の国立大学は九大しかないから」
「九大は偏差値が高いから」「福岡に引っ越してきたから」とかせいぜいその程度のことで、
九大に通ることが自分にとって良いことだという根拠もなく、
いまを犠牲にして勉強するのは少し馬鹿げていると思ったのです。
ですから、なにか特別な理由があって大学を志望している人はいいと思います。
しかし例えばぼくと同じように、意味もなく東大を目指したりしている人は、
ぼくと同じくらい馬鹿げていると思います。だって、先のことはわからないのですから。
もし別の大学に行ったとして、そこで非常に気の合う友人に出会うかもしれないし、
将来の恩師となり得る人物に出会うかもしれない。
もちろん例えば東大に行っても、なにか行ってよかったと思えるものがみつかもしれませんが。
選ぶ道は一つしかないのだから、あとを振り返って「あっちにしていればよかった」と
後悔することも無意味だと考えます。別の選択肢を選んだからといって、
自分の思うようにいったかどうかはわかりません。
要するに確実にわかることは自分が選んだ選択肢に関することだけであって、
それ以外の選択肢をこれから選ぶ場合、もしくは過去に選んだいた場合、どうなるか、
もしくはどうなったか、ということに関してはわからない。
うまく言えないのですが、要するに選択肢の数だけの人生がある。
そしてそのどれもが意味のあるものだ、とそのようなことを言いたいのです。
自分の話に戻ると、まあ別に九大以外の大学に行ったって、
先のことがわからない以上、悪いことはないだろう、と。
悪いことがあっても、九大に進んだからといって、良いことばかりが
起こったかどうかはわからない。不確定な未来のために確実ないまを無駄にするのは、
なにか違っている気がする。そのようなことが言いたかったのでした。
日本人の悪い癖の一つは、自分の未来を規定しがちだということです。
人生には、僕たちが思う以上の自由度があるんだと。
そのようなことを自転車で帰りながら考えました。


ぼくが仏教に出会う直接的なきっかけなったのは、
駒沢勝先生という小児科医の先生が書かれた本です。
ぼくがとても尊敬している先生です。
駒沢先生は岡山大学卒なので、岡山大学を目指してみるのもいいかな?と思いました。
いつまでも親元にいてもいいことはありませんしね。
さっき代ゼミのホームページを見ると、岡山大学医学部のセンター試験ランクは、
前期90%、後期91%でした。結構高いですね(笑)
(ちなみに九大は前期91%、後期95%です)
焦って決断するのはよくないので、しばらく考えてみようかと思います。
いざ岡山大学を目指すとなれば、両親も応援してくれるでしょう。
まあ先のことはわかりません。


そうそう、上で肩肘張った話を書きましたが、いま九大を思い直している直接的な理由は、
学力が足りないからです。昔のようにがむしゃらに勉強すれば受かるかもしれませんが、
いまの自分には無理です。体力的・頭脳的衰えを感じます。
19にもなったら頭のキャパは落ちる一方です。
有効活用すれば、学力もあがるかもしれませんが。
(もっともぼくは、学力というものをそんなに意味のあるものとは見ないのですが)


長くなってしまったので、アメリカ三行日記の続きはまた今度載せます。
それでは。

新装版 なぜ人間には宗教が必要なのか (講談社の実用BOOK)

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聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

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