諦念に関する話

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このA君とは餓鬼の頃からの友。竹馬のときから、おたがいに世のためにもならず、人のためにも役だたぬチンチンのゴミのような人間になりたいものと、たがいに相つとめた結果、その志どおり、めでたく我も彼もチンチンのゴミのような者となり大いに満足しておる。

(遠藤周作『ぐうたら生活入門』より)


いまのこの窮屈な世の中に生きる僕たちの助けになるのは、
こんな考えではないでしょうか。
五木寛之さんは「いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から
出発すべきではないのか。」(『大河の一滴』)と言います。
上の遠藤周作の考え方も、ある種極限のマイナス思考の結果といえるでしょう。
あらかじめ最も低い位置に身を置いておけば、
それよりも貶められる心配はありません。


なにを言っても、なにをしても、所詮我らチンチンのゴミ。
そのような諦念からはじめてみるのも、良いかもしれません。