悲観主義に関する話

昨日に引き続き、マイナス思考に関する話です。

悲観主義の本質は意思を信じないことである。オプティミスム(楽観主義)はまったく意志的である。

(アラン『定義集』より)


言い得て妙、でしょうか。
しかし、あえて付け加えるならば、悲観主義には二つの種類があると思います。
一つは、あらゆる事象が悪い方向にしか進まないと嘆く悲観主義
もっと言うと、悲観的な状況を悲観するタイプ。
もう一つは、自分自身と、環境や状況を峻別する悲観主義
いわば、「明るい悲観主義」とでもいうのでしょうか、
「どうしようもないこと」や「どうにもならない自分」との諦念持ちつつも
(アラン風にいえば意志を否定しつつも)、
それはそういうものだと容認し、ある意味前向きな姿勢でいるタイプ。
昨日ふれた遠藤周作五木寛之さんは、後者に属するでしょう。


「明るい悲観主義」は、人生を広げてくれるものだと考えます。
それはいわば容認、是認の境地、寛容の境地、
もっといえば慈悲の境地といっていいかもしれません。
たとえば友人のS。彼は定期や財布など、よく物を失くします。
ぼくもよく物を置いた場所がわからなくなり、探すのに時間を無駄にします。
そして後悔します。
あるときSと話していたとき、ぼくは彼の言った言葉に耳を疑いました。
「物を失くすのは仕方がない。それが自分だからね。」
ぼくはとことん自分の意志の介在を否定する彼に、驚きを隠せませんでした。
そして意志を否定する自分自身を肯定する彼に、感心しました。
これこそ「明るい悲観主義」ではないでしょうか。
熱が出たとき氷で冷やすのではなく、布団をかぶって汗をかくことで熱を下げる、
そういった姿勢に近いものを感じました。


なかなか達しがたい境地だと思います。