浪人II―17

やあす!帝王っス!


聞いて聞いて、昨晩は居眠りしてたりで就寝は3時だったんだけど、火曜日から予備校がはじまるんでがんばって八時はんに起きて朝御飯つくって食べたのね。そしたら帝王やっぱつかれて布団に入ってもうた。布団にはいりながら昨日買ったフロムの『愛するということ』を読もうとおもっていたら、予想どうり寝てしまい、おまけに四時間もねてしまった。寝汗びっしょりだし。しかも起きる直前に昨日復活祭で歌った讃美歌の「アーラマ・タ」というメロディーが夢のなかで流れていた。うーむ。最近食っちや寝が多いので家事すませて勉強して予備校にテキストをとりにいってシュッツで歌ってきます(希望的観測)。たくさん寝たから声帯の調子が絶好調だコラ。おまけに疲れもとれた。オシ。オラ今日こそ計画通り動くべ。


それと昨日の続き。信仰について。人間が生きていく上で大事なのは、どんなことがあっても崩れない絶対的な土台をもつこと。若さはいずれ衰えるし、友情も時には壊れるし、愛もなかなか続くものではない(まあ帝王はジョノカ一人しかいたことないから知らんど)。また音楽にも行き詰まりはある。そこでなにを土台に据えるかと考えたとき、人は信仰というものを考え出したのね。つまり神であれ仏であれ、常に自分を救ってくれる存在があると信じるの。信じることによって、すでに 救われているの。それが「信じるものは救われる」の本当の意味だと帝王は思う。それを信仰と呼ぶのね。


キリスト教はその辺が厳密で、教会で礼拝を行ったり、洗礼を受けたりする。また礼拝では牧師さんが聖書のテキストに基づいて説教をおこない、信者は讃美歌を歌う。


それに対して仏教はその辺があいまいというかてきとーというか寛大で、在家信者というものもある。真宗なんかは信じなくても救われるという。南無阿弥陀仏は仏の救いに対する感謝の気持であると親鸞は説いた。(浄土宗では南無阿弥陀仏と唱えることによって救われると道元が説いた)。


キリスト教と仏教を簡単に比較すると、前者の方がより厳密で形式的なの。だから考え方によっては、礼拝に参加することによって、深い信仰が得られるともいえる。対して仏教は自分の頭なかで仏さまの存在を信じます。だから絶対的な土台を築くという意味に老いては、キリスト教の方が形式で簡単だといえると思う。


帝王はなんちゃって仏教徒だけど、上のことを考えると、これからは教会の礼拝に参加してみようかな、なんて気持も起こりました。まあ9割は讃美歌を歌いたいからっていう音楽的理由からだけどね。でも今後真面目に宗教曲に取り組んでいくからには、最低限キリスト教について理解が必要だと、そういう風にも思います。


ばかの一つ覚えみたいに「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン(主よ憐れみ給え、キリストよ憐れみ給え)」なんて歌っていても、それはただ譜面をおっているだけだからね。帝王は、今後は音楽を通じて、宗教について、哲学について、人生について、倫理について、考えていきたいと、昨日淡野先生とお話しして思いました。あーあかんもう二時だ。マッハ10で飛び回ります。クココココ。言うは易し。


んじゃまた哀愁。



はぅ

体がだるいよぅ。体が重い。こころも曇り。これは免疫力が落ちてる兆候の気がするよ。もしくはデプロメールの副作用か。家事、がんばりすぎてるかな?


いまから代ゼミにテキストとりにいってシュッツ練にいってきまーす。ひとつ音楽に力をもらおう。しかし三時間も練習してたら倒れそう。今日は低血圧で倒れたし寝起きにサイレースの持ち越し作用でフラフラだったし午後は体が重いしついてないわぁ。民衆は季節の変わり目に気を付けてね。

ふぅ

シュッツ練習いってきました。噂に聞いていた通り、月曜日の練習は厳しい。泣きそうになったが芸術的に楽しかった。もう寝るので詳しいことは明日にでも。だが練習内容は門外不出なので雑感にとどまるかも。少なくとも技術的なことは絶対に外に出せません。


明日から予備校なので寝ます。いま12時。明日は1限がないがリズムをつくるため6時半に起きます。明日以降は11時就寝6時起床が目標。なにより寝ます。んじゃまたおやすみ。