浪人ニッキII―10

やあす。帝王。


昨日のニッキは睡眠薬を服用して30分後ぐらいにかいたのと、手に靴下をはめていて(毎日。アトピーで掻いて傷にならないため)文字が打ちにくかったので、かなり誤植が多い。いずれ直します。ていうか東京はいろいろあって楽しいからマンキツなんかに行く気がしない。最近忙しいしね。


ところで帝王が金曜日にシュッツ合唱団東京の入団オーディション(?)を受けめでたく合格したことは書きました。そのとき出されて戸惑った課題が、「日本語の詩を与えられ、それに即興で歌をつけてください」というものなり。具体的にいうと、詩は「月よ 星よ 花よ 太陽よ」と「道に迷った 獣たち」の2フレーズ。


帝王はいままで音楽に対する言葉の立場というものを、前者が優位で後者が劣位のものだと感じていた。しかし、(原始的には言葉よりも先に「歌」が成立したという考えは置いておいて)現在伝わっている歌はほとんどが言葉をベースにして音楽がつくられているし、また言葉で表現しきれない感覚を音楽を表現しようとする、という側面もある。(特にキリスト教のミサ曲などは定められたテキストの上に音楽が構成されている)そう考えると、まず言葉が先にあって、音楽は言葉を、その内容を肉体的なものに変換(発展)したものだといえる。

ところが、帝王はこれまでその事実に気付かず、言葉に音楽を感じることが出来なかった。言葉が発する旋律を意識していなかった。


そこで、上の淡野先生の課題である。言葉から音楽をつくれ、という。帝王は戸惑ったが、「インスピレーション」でメロディーを歌った。帝王が初めて言葉のもつ音楽性を意識した瞬間である。言い方をかえると、帝王はその場ではじめて言葉の音楽に対する意味を、パッシブでなくアクティブに感じた。ひとつの意識の改革である。


ここで終わったら民衆。しかしアイム帝王。これをきっかけに、帝王は既存の詩から曲をインスピで作曲するという遊びを思いついた。そこで本棚をみる。ヴァレリー、ヴィヨン、ヴェルレーヌボードレール…んーこのフレーズなんて意味?高村光太郎島崎藤村三好達治…んー言葉が古い、これ解釈はどうすれば?


…ということで、「現代日本語の詩で、わかりやすいもの」をテーマに、店員やいくやや自分の知識を頼りに、ここ数日で安野光雅宮沢賢治石垣りんの三人の詩集を購入。詩を読みながら歌をつくる、これはなかなか面白い遊び。面白い旋律をつくりたいなあ。



今日はいろいろいったのだけれど疲れたので寝ます。米といで浸水させておいてから寝なきゃ。それとパソコン利用時期は不明です。


まったく関係ないがいま今日手に入れたフィリポ・ジョルダーノのCDを聴きながら書いているのだけれど最高。これはここ5年のベスト3に入る。歌とは素晴らしい!


ああもう帰宅してから三時間、二時だがあまりに疲れて次の行動がとれないよ帝王。寝たいがやることが…明日は洗濯に…ううむ忙しい。