近眼の効能に関する話

uchiochan2006-02-27

やあす。ブルーマンデー?なにそれ食えるのか?のうちおです。


今日は近眼の話です。
近眼、英語でいうとmyopia。フランス語で言うと○△、
ドイツ語でいうと×□。
近眼というのは、なったことがないひと(最近は少ない?)は
わからないでしょうが、
遠くがよくみえなくなる症状のことです。
ゲームやったり本読んだりしてるとなります。
つまり文科系の人間に多い症状です。


近眼になるとマクドナルドのメニューがみえないとか観光しても景色が見えないとか
いろんな困ることがありますけども、実はいいこともあります。
それは正に「遠くが見えない」ことで、これは嫌なものは見なくても済むということです。
下に太宰治の小説『女生徒』より、そのことを的確に言い表した文章があるので引用します。

 朝は、いつでも自信がない。寝巻のままで鏡台のまえに坐る。眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。汚いものなんて、何も見えない。大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいってくる。眼鏡をとって人を見るのも好き。相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。それに、眼鏡をはずしている時は、決して人と喧嘩をしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。唯、黙って、ポカンとしているだけ。そうして、そんな時の私は、人にもおひとよしに見えるだろうと思えば、なおのこと、私は、ポカンと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。
 だけど、やっぱり眼鏡は、いや。眼鏡をかけたら顔という感じが無くなってしまう。顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんあもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。それに、目でお話をするということも、可笑しなくらい出来ない。
 眼鏡は、お化け。
 自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思っている故か、目の美しいことが、一ばんいいと思われる。鼻が無くても、口が隠されていても、目が、その目を見ていると、もっと自分が美しく生きなければと思わせるような目であれば、いいと思っている。私の目は、ただ大きいだけで、なんにもならない。じっと自分の目を見ていると、がっかりする。お母さんでさえ、つまらない目だと言っている。こんな目を光りの無い目というのであろう。たどん、と思うと、がっかりする。これですからね。ひどいですよ。鏡に向かうと、そのたんびに、うるおいのあるいい目になりたいと、つくづく思う。青い湖のような目、青い草原に寝て大空を見ているような目、ときどき雲が流れて写る。鳥の影まで、はっきり写る。美しい目のひとと沢山逢ってみたい。


実にいい文章だと思います。

眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい。汚いものなんて、何も見えない。大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいってくる。

というくだりは、近眼のよさを実に的確に表してくれていると思います。
ぼくも近眼なんですが、自分なんかはメシの時は眼鏡をかけません。
人の顔を見ながら食べるのは嫌いだからです。


ところでこの『女生徒』は太宰治の創作ではなく、太宰の熱烈な読者の「有明淑」(ありあけしず)
という女性から太宰のもとに送られてきた日記を元に書かれています。
書かれている、というか、ほとんどモザイク画に近く、4ヶ月にわたる日記の
部分部分をつなげて、本当に巧妙に一日の流れへと再構成した作品です。
もちろん完全にパクったというわけではなく、一部太宰が訂正したり
書き加えた部分もいくらかあります。(しかし大部分は有明淑の日記)
冒頭などはそのいい例です。これはまた衝撃的な書き出し。
長くなるので最初の数文だけにとどめておきます。

 あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして着物のまえを合わせたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだかもっと、やりきれない。箱をあけると、その中にまた小さい箱があって、その小さい箱をあけるとまたその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、ハっつも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。パチッと目がさめるなんて、あれは嘘だ。…(後略)


ところで上の眼鏡の文章は驚くべきことに太宰の創作ではなく、有明淑の日記に、
そっくりそのまま載っています。一部のみ引用します。誤字はそのままです。

今日もいつもの通り柿の木とみつめっこ。  雨と目鏡を取つたので、ぼやけてしつとり見える。自分の顔の中で一番目鏡が厭なのだけれど、他の人
には、わからない目鏡のよさもある。  目鏡を取つて、遠くを見るのが、好きだ。全体がかすんで夢の様に美しく見えるのだ。  汚いものなんて
見えない。  大きいものだけ、強い色、光り丈目に入つてくる。…(後略)


このようにパクりともいえる『女生徒』ですが、有明淑の日記が見つかる以前は
「女の心を的確に捉えた」とか批評家に書かれて、その批評家は大層恥をかいた
んじゃないかと思います(たぶん)。しかしいまは日記の再構成能力とか、
そもそも有明淑の文体が太宰のそれを真似たものであることから、
相変わらず『女生徒』は稀代の名作とみなされているみたいです。
ということで機会があったら読んでみてください。かなり読みやすい作品です。
(ちなみに有明淑の日記は青森近代文学館で手に入ります。)


最後に、『女生徒』のなかでボクが最も好きな一文を。

美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。


っていうか今日は近視の話をしていたんだった。まあいいや。
ではまた柿の木とみつめっこ。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card275.html

女生徒 (角川文庫)

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