仏教コミックスに関する話

昨日の続きです。


昨日も書いたとおり、ジュンク堂には足繁く通っているのですが、
最近よく見るのは仏教書のコーナーです。
ぼくがどういった縁で仏教に引き合わせられたかは別の機会に書くとして、
今日はすずき出版の仏教コミックスシリーズについてです。
このシリーズはひろさちやさんという方が原作を書かれていて、全108冊あります。
ひろさちやさんの書く文章は非常に平易でぼくのような者にもわかりやすく、
それでいて非常に心に響く言葉を持っています。
その中でも特にぼくが心惹かれたのが『お浄土のはなし』という巻です。
今日はその話をします。


この宇宙には多数の仏さまが存在し、その仏さまがそれぞれの浄土をお持ちです、
と始まります。この本では阿弥陀仏さまの極楽浄土を例にとってあるのですが、
極楽浄土には観音菩薩さまもお住みになっていて、阿弥陀仏さまが
ご入滅された後にあとを継ぐことになっているそうです。
しかし阿弥陀様の寿命は無量、これは一説によると1064年らしいのですが、
とにかくその間は阿弥陀様が一手に引き受けて説法される。
観音さまは出る幕がないので、阿弥陀さまに命じられて人間の世界に修行しに来られている。
ただし人間に生まれ変わると生前の記憶はなくなるので、
どの菩薩さまも自分が菩薩だとはわからない。
阿弥陀さまの浄土以外にも菩薩さまはたくさんおられるので、
人間の世界に来ているのは観音さまお一人ではない。
菩薩さまは自由に姿を変えることができるので、もしかすると僕たちの知り合いにも
菩薩さまがいるかもしれないのですね。
しかし、仏教では「あの人は菩薩さま、あの人はちがう」といったような偏った見方をしないので、
僕たちみんなが菩薩さまだと考える、信じるようにしているそうなのです。
ですから、僕たちはみんな浄土からこの世界に来ている。
つまり、浄土は僕たちのふるさとということになります。
すなわち浄土は僕たちが死んでから「帰る」ところだと。


ではなぜ僕たちはわざわざ浄土から人間世界に来ているのか、ということになります。
それには二つの意味があるそうです。
一つは浄土が何十億年という長寿の世界なので、
だれかが死ぬという体験をすることができない。
そこで命の短い娑婆世界にいろいろな死別を体験するためにやってきたというのです。
この世の苦しみ悲しみに耐える精神と、やさしい心を養うための
修行にきているというのです。二つ目は、浄土は完全な世界で、
完全な世界に生きるものは完全な存在で、ものの区別もない。
だから浄土に住んでいる限り役割分担ということがわからない。
そこで不完全な僕たち人間の世界に来て、
互いに補い合う生き方を学びに来ているというのです。
僕たちは不完全ですが、不完全な僕たちにもそれぞれの役割がある。
お金持ちにはお金持ちの役割、貧乏人には貧乏人の役割、
男には男の役割、女には女の役割がある。
また勉強ができない子にも、病気の人間にも、障害者にも、それぞれの役割がある。
もちろん勉強ができる子にも、健康な人間にも、健常者にも、それぞれの役割がある。
つまり僕たちは、逆説的ですが、ある意味で、あるがままで完全な姿なのです。
ですから僕たちはそのままの姿で幸せになっていい。
勉強ができない子を尻を叩いて勉強ができるようにするのではない。
病気の人間を、無理やりに健康な人間にするのではない。
大事なのは、勉強ができない子は勉強ができないまま、
病気の人間は病気のままで幸せにする、またはなる、ことなのです。
言い換えれば、容認、是認の姿勢、慈悲を持つことが大切なのです。
また僕たちにはみな、健康な人には健康な人なりの、病気の人には病気のなりの、
金持ちには金持ちなりの、貧乏人には貧乏人なりの、
それぞれの苦しみや悲しみがあるけれども、僕たちはみな浄土から、
その苦しみや悲しみを受け止めるために、修行をしに来ている。
だから僕たちは仏さまのくれたその苦しみ悲しみをしっかりと受け止めなくてはいけない、
とひろさんは言います。そしてこの娑婆世界でたくさんの苦に耐えると、
やがて僕たちは浄土に帰る。そこで仏さまは「よく耐えたね。もう休んでいいのだよ」
と僕たちを受け止めてくださる。僕たちも、周りのだれも、
みんなが菩薩さまだと信じようではないか、そう言うのです。


長くなってしまいましたが、ぼくはこの本を読んで非常に感銘を受けました。
立ち読みで完読してしまったのですが、胸が震える思いでした。(もちろんその後購入しましたが)
上に書いた話以外にも、いろいろなたとえ話や教えがあります。
みなさんももし興味を持たれましたら、是非読んでみてください。


明日は、それで結局阿弥陀さまは本当に存在するのか?
浄土は存在するのか?ということについてです。