浪人ニッキ97

やあす。うちおです。みんなイキテル?


今日は、朝ごはんを食べ。寝て。昼ご飯を食べ。寝て。夕ご飯を食べ。
夜少し母親と会話を交わしました。
あまりにも悲惨なぼくの体調に同情して、ついに医学部はもういい、
と言ってくれました。いや、言ってくれました、っていうのも変なんだけど。
伝えたのは、「医学部には行きたくない。偉い人にはなりたくない。もう疲れた。」ということ。
それに対し母親が答えたのは、「それは病気だからでしょう」と。
まあ、もっともな考えかもしれません。病気(軽いうつ)のせいもあるでしょう。
が、病気が治っても、医者になる気はたぶん起こらないと思います。


母親の考えとしては、ぼくはいままで散々努力して勉強して来たのだし、
アメリカで英語を身に付けたこともあるし、それをいかして
いい仕事についてほしい、それに子供の頃から医者になるのが夢だったし、
ということらしい。この考えはぼくにも理解できます。
しかし、実際の話、ぼくが子供の頃から(あれ?医者を目指したのは
中学を卒業してからじゃなかったっけ?)医者を目指していたのには、
深い考えはありません。ただ目標を決めていれば、あとはその先
将来なんになるか考える必要がない、と思ったからです。
それに昔は成績もトップだったし、医者を目指しているといえば、
みんながちやほやしてくれる。事実親戚中にも期待されていたし(いるし、
と言うべきでしょうか)、周囲の友人や先輩たちにも尊敬されている面もあった。
しかし、ぼくはもうそれには疲れたのです。
ぼくは、かつて勉強をしたから成績がよかったというだけで、
それ以上の人間ではない。頭がいいか悪いかでいえば、決してよくはありません。
仕事ができるか出来ないかでいえば、ぼくは仕事のできない人間です。
なぜって、第一ぼくは頭の回転が人に比べて遅い。
たとえばたまにコメントを頂くやまださんなどと会話してても、
たまに会話についていけないこともある。(どういうことを言っているんだろう?)
と思いつつも、とりあえず相槌を打っておく、とか。
そういえばこの間もauショップで携帯プランについて聞いたら、
矢継ぎ早に情報を与えられ、ぼくの頭は混乱しました。
話が早すぎて、プランを理解できなかったのです。
所詮、ぼくの頭はその程度のものです。
このブログだって、内容のある記事を書くときは、必死に考えて書いている。
決してホイホイ頭の中にある考えを書いているわけではなく、
書きながら必死こいて考えを練っているのです。その程度のものです。


長くなりましたけども、そういう思いがあって、ぼくは人にエリート扱いされることに
違和感を感じ始めてきました。感じ始めた、というのは、以前は
勉強もできたし自分は本当のエリートだと思っていたのです。
しかし、勉強ができることと能力があること、もっと具体的に言うと、仕事ができること、
とは別物です。エリートといってもいろいろありますが、
最も一般的には仕事ができて要領がいい、頭の回転が速い、
発想力のある、行動力のある、そういったひとを指すと思います。
しかしながら、ここ数年で、ぼくは決してそういった人間ではないと、
ようやく気付きました。ぼくはそんなに優れた人間ではない。
高校三年間、筑波大学附属駒場高校に通い、本当のエリートと接してきましたが、
エリートとは自分のような生ぬるい人間ではないのだとわかったのです。
そうして真実を「発見」したからこそ、それ以上他人にエリート扱いされるのは、
疲れるのです。だから、ふつうの大学にいってふつうの仕事をしたい。
具体的にいいますと、東京医科歯科大学はなんといってもエリート校ですから、
いくなら首都大学東京に進んで、理学療法士なり作業療法士なりになる。
(首都大には検査技術専攻はないのです。)
そういった市民の生活の方が、自分に合うのかもしれないなあ、
という思いを、ごく最近になって得たのです。


東京の合唱団Rの先輩社会人も、そういった市井の生活というか、
非エリートの生活をしている人が多く、そういった人に憧れることもありました。
ぼくの父親は、最近知ったところによると年収1500万ももらっている
銀行員のおエライさんなんですが、(余談ですが、ぼくはいままで
「うちは貧乏だ」と聞かされてきたので、この間年収を聞いて驚きました。
というか、ダマされた気分でした。金がないのは年収がないせいではなく、
ぜいたくな生活をしてきたからなのです。)そういうエリート的生活より、
金はなくとも時間はある、というか心のゆとりのある、
力のぬけた、気合のない、それでいて張り合いはある、
そういった市民の生活の方により憧れます。


また自分の話になりますけども、母親の弟、つまりぼくの叔父は、
以前製薬会社に務めていたものの退職し、それからは無職になったり
一時的に仕事に就いたり、かなり適当な暮らしをしている人です。
そんな叔父を、母親は許せないらしい。だからぼくにはちゃんとした仕事についてほしいらしい。
それを聞いてなんとなく母親にも同情する気持ちはおこりました。
しかしながら、繰り返しになりますけども、ぼくは父親のような
「ちゃんとした」生活をしている人よりも、叔父のように
その日暮らしというか、もっと余裕をもって、何も考えていないような
生活をする人の方が、幸せだと思います。
叔父の子供、つまりぼくのいとこ(二人)は、頭はよくないようですけども、
そんな父親を持って、とても幸せそうに暮らしています。
父親ともとても仲がいいよう。
それに対しぼくは頭はいい(とされてきた)けれども、父親はしっかり働いているけども、
とても不幸せですし、10年以上も前から、親とまともに会話をしたことはありません。
これは極論ですけども、本当に頭がよくない限り、勉強はしないほうが幸せです。
そして、収入も少ないほうが幸せです。(もちろん生活できる程度、
そして少し趣味に使える程度の収入はあったほうがいいと思います)
また、学歴も低いほうが幸せ、仕事も社会的地位が少ないほうが幸せです。
もちろん幸せというのは極めて主観的な価値観ですから、
その人が幸せと思えば、それは幸せでしょう。
しかし頭のいい、収入の多い、学歴の高い、社会的地位の高い仕事に就く人の
幸せとは、語弊を恐れずいえば、物質的幸福です。
そして物質的幸福とは、概ね、精神的幸福とは負の相関関係にある。
これはいままで繰り返し言われてきたことではあるでしょうが、
ぼくはそれを、最近になって、実感を伴って理解してきています。


ですから、ぼくは精神の平穏を得るために、市民的な生活をしたい。
それが結論です。一言でいえば、名誉も金もいらないから、幸せになりたいんです。


む!すっかり話がそれてしまった。今日の本題はこんなことではありません。
一番書きたかったのは、今日になって、やっと、ようやく、
親の同意らしきものを得られたことです。同意、というか理解、というか。
母親は「病気だからそんな考えをするんでしょ」とは言いますが、
しかし、「病気が治るなら保健学科にでも東京にでも行きなさい」という。
ひとまず、事態は落ち着いたといっていいかもしれません。
そう簡単にいかない面もあるのですが、少なくとも、事態は好転しました。
以前よりは、いい方向に向かっている。ちょっと勉強しようかな。みたいな。


すっかり長くなってしまいましたが、まだまだ書ききれないこともあります。
それは、頭の鈍いぼくのことですから、仕方がありません。
書ききれなかったこと、書き逃してしまったこと、書き間違ってしまったこと、
いろいろありますが、いまの自分の考えはこういったところです。
十分に表現できてない点はありますが、笑って読んでいただければ幸いです。
それではまた。