信仰に関する話

昨日は仏教コミックス『お浄土のはなし』の内容を紹介しました。
そんな都合のいい話があるか、と思われた方も多いのではないでしょうか。
大体阿弥陀さまだって誰が見たわけでもないし、浄土にだって誰も行ったことがない。
だからそんなものは存在しないと言うのも、もっともだと思います。


正直言って、ぼくも阿弥陀仏さまが本当に存在するのかどうか知りませんし、
死んだら浄土に帰るかどうかもわかりません。
自分が菩薩だというのも今いち実感がわきません。
しかし本当に大事なのは、本当かどうか、存在するかどうかではなく、
自分が信じられるなにかを持つことなのだと思うのです。
だからある意味では、神仏が存在するかどうかという客観的な事実は問題ではなく、
大切なのはそれを信じられるかどうか、ということだと思います。
「信じる者は救われる」という言葉は、ぼくは今まで「信じる者のみが神によって救済される」
というような意味だと思っていたのですが、実は「信仰を持つこと自体が自分を救うことになる」
という意味ではないか、と最近感じています。
(こんなことを言うと、今さら当たり前のことを言うなと怒られてしまいそうですが)


昨日と同じく仏教コミックスの『親鸞の救い』に書いてあったのですが、
親鸞聖人も同じようなことをおっしゃっていたそうです。
ある時弟子たちの間で意見の相違が起こり、遠くからはるばる親鸞聖人に、
どうしたら浄土に往生できるのかを尋ねにいったそうです。
その時親鸞さまが言われたのは、わたしは知らない、わたしはただ
法然上人のおおせを信じているだけなのです、だから仮に念仏の教えが間違っていて、
地獄に落ちたとしても仕方のないことです、ということだったそうです。


ところで親鸞聖人(浄土真宗)の教えは「他力本願」、平たく言うと何もかもを
阿弥陀仏さまに委ねることだそうです。
つまり「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのも、それをすることによって
仏さまに救ってもらおうという考え(自力)からではなく、
念仏を唱えること自体がすでに、仏さまのおはからい(他力)によるものだということです。
そして親鸞さまの教えでは、自分でできることは何一つなく、
この世のすべてのことは仏さまのおはからいによって動いている、ということになります。
そこには人間の善意というものは存在しません。
例えばぼくが何かいいことをして、人を助けたとする。
そういう時に僕たちは「自分のおかげで」と考えがちですが、
実は自分でできることなど何一つなく、そういった機会を与えてくださったのも
仏さまのおはからいだと考えるんですね。
そうすればおのずと感謝の気持ちもわいてこよう、と。
そうすれば僕たちがよくする「思い上がり」や「驕り」ということもなくなるだろう、と。
そういったことも『親鸞の救い』に書いてありました。


このことは非常に大切で、思い上がりがなくなれば、謙虚さにつながります。
先日TVで日本の名医の特集していた番組をちょこっとだけ見たのですが、
その時にある脳外科の先生が「僕でなければこの人は救えません」と、
力強い声でそう言っていました。
その時ぼくは少し嫌な気持ちがしました。
うまく説明はできないのですが、その先生が言っていることは正しいけれど、
患者さんの命を救ってきたという自負というか、いわば思い上がりの部分に
少しく違和感を感じました。
というかそもそもぼくは命を救うという行為自体に、なんだか落ち着かない感じがします。
このことについてはいつか時間がある時にまた書きます。